学連の記事をご覧いただいている皆さん、こんにちは。
学生委員長の方山です。
今日から3回に分けて、明治大学4年生の曽我選手の記事を連載していきたいと思います。
地震に被災した熊本への想い
記憶に残っている方も数多くいらっしゃるかとは思いますが、2016年4月16日、熊本県を震源とした大きな地震が発生いたしました。地震発生から半年以上経った今でもその傷跡は深く残されており、不便な生活を余儀なくされている方々が多くいらっしゃいます。 しかし、そのいった大きな困難にも挫けることなく、また被災者の方々を励ますかのように多くの熊本県所属の選手が学連で活躍しています。
そこで、学連では明治大学曽我選手に故郷に対する想い、そして現在でも熊本県所属として活躍する学連選手を紹介していただきました。
なお、曽我選手に書いて頂いた記事は8月ごろに書いて頂いたものであり、時期と内容にズレが生じてしまっていること、連載が大幅に遅れてしまったことを深くお詫び申し上げます。
(以下、曽我選手より)
改めましてこんにちは。
明治大学法学部法律学科4年の曽我圭佑と申します。
ここから少し私自身の紹介をさせていただきたいと思います。
軟式野球から自転車競技へ
私は生まれも育ちも熊本です。
小学校中学校までは軟式野球をしていました。中学校の頃はメンバーにも恵まれ、補欠ではあったものの全国大会にも行きました。高校に進学する際は競輪選手であった父の影響で九州学院高校の自転車競技部に入って自転車を始めました。
表向きは競輪選手になりたいから自転車を始めたかと思うかもしれませんが、本音を言うと受験勉強に行き詰まり自転車に逃げたといった方がいいかもしれません(笑)
しかし自転車の世界は甘いものではありませんでしたね。最初の一年はインターハイにも出場できませんでしたし、2年の頃の初のインターハイも予選を上がるのが精一杯でした。
この悔しさからようやくまともに練習するようになり、2年の選抜大会で4位の成績を残せました。これがきっかけで明治大学から声がかかり、明治大学自転車競技部に籍を置くことができています。
高校最後のインターハイで好成績を残し、明治大学へ
最後のインターハイはいろいろ運がよくて個人で準優勝、団体で準優勝、学校対抗でトラック総合優勝ができました。くしくも父の高校時代と全く同じ成績だったので変なところで親子だなーと感じました。
大学に入学してすぐに個人戦でのタンデムスプリントで優勝はしましたが、3年生の時に個人戦のケイリンで優勝するまでの2年間は全くというほど成績は残せませんでした。
大学は高校と違って毎回指導者が練習を見るのではなく、自分たちで考えて練習しなくてはならない環境です。でも練習はしていました。それでも成績は残せなかったです。
この時期は自転車がほんとに嫌いでした。
それでも腐らず練習に取り組めたのはやはり親の存在です。
家族の存在の大きさ
高い授業料を払ってもらっているだけでなく、自転車にも相当な額のお金がかかるので親の負担は大きいです。だからこそ私にできるのは成績を残すという恩返ししか思いつかなかったのです。「なによりも親を喜ばせたい」その気持ちを持ち続けてきたからこそ辛い練習も頑張れています。
4年生になり、学連の選手として走れる最後の年になりました。
しかし、今年はあまり学連のレースに出場できておらず成績も残せていない現状です。
地元・熊本の地震被害
4月14日の熊本地震により故郷熊本は被災しました。実家は無事だったのですが、祖母の家が大規模半壊となってしまい住めない状態となりました。
熊本に帰省し引っ越しの手伝いなどをしましたが幼い頃から見ていた祖母の家が私の知っているものではなく言葉も出てきませんでした。
通っていた中学校は壁がはがれ、今もプレハブの仮設校舎で授業をし、高校も4つある校舎のうち1つは取り壊されています。家が全壊し、仮設住宅にすんでいる知人も何人かいます。
今では熊本地震についてテレビではほとんど放映されなくなりましたが、皆さんが思っている以上に熊本はまだまだ復興に時間がかかります。
熊本の象徴である熊本城は10年以上の月日をかけないと修復されないとも言われ、いつも利用させていただいていた熊本競輪場も修理に入るのが来年以降です。そんな状態の熊本ですが、だからこそ決意できたこともあります。
今私ができることは被災した熊本に勇気や元気を与える走りをするしかありません。
今学連には熊本県登録者が15名います。どんな選手かを全員紹介していきたいのですが、記事では母校である九州学院関係者のみを紹介させて頂きたいと思います。是非、次週からの連載をお楽しみに! (曽我選手の記事は原文ママ、一部文章を追加)